年をとると
母84歳 足が痛い。脊柱管狭窄症と診断されて十年以上。膝は痛いし 足の裏はしびれる。
手術をすれば治るかもしれない。とはいえ、リスクがある。
知り合いのお母さんは足の手術で歩けなくなったそうだ。
医療ミスがあったらしい、今は施設に入っているという。
リスクが怖いから 手術は 母は躊躇。痛み止めもボケるリスクがあるから
あまり飲みたくない。 痛い痛いといいながら歩く。
耳は遠くなってきた。母方の祖母も伯父も耳が遠いのでそういう家系
指も力が入らなくなってきた。固い蓋、ゼリーのぴっちりのくっついた蓋も
開けにくい。 字も震える。
元々なんでも人に頼らずやってきた そういう人が頼るんだからしんどいんだろう。
年をとると年々 できない事がでてくる。
弱るって悲しい。
今読んでる 脳の本
脳って 過酷な野生の世界で情報を整理しないと生きていけない。
これは危険 これは安全など 情動があることによって
発生したものらしい。
心って そういう所から できたものらしい。
人はなぜ生きているのか?
心って生存の為に必要なものとしたら、人は何のために生きるのか?
宗教的や哲学的なものに 答えはなさそう。
そう思うと生産能力がまだある自分も
生産性はいきる手段であり、価値ではないんだな。
せいぜい 不快にならず 楽しく過ごす事がよさそう。
高齢者は不要?
人の通る通路でカートとともに止まっているお婆さん
セミセルフ会計機で手が止まってるお爺さんに近づいたら
大きな放屁が長く続いてる。
高齢者って邪魔。役に立たない。
姥捨て山にすててしまえば 高齢化社会なんて無くなる。
なんて思考がはびこると20年後我々が捨てられる番だ。
生産できないものという考えかただとそうなる。
疑似体験
スキー手袋をはめて 小銭をとりだす。足に重りをつけて歩く。
高齢者の疑似体験をするとこんな感じのハンデになる。
できない しんどい。
高齢者は年々 そういう物が増えていく。
若い頃は皆に頼られ社会、家族を支えていたのに。
人生はところてん説(まき猫説)突かれて前に押し出されるから
次は我が身。うちは私と母。84歳と59歳。
もう5年もしたら生産性はないし 災害時避難するのもやっとな世帯になる。
どうしようもないんだけど うち自体が弱くなっていく一方。
自分が弱くなっていくのを自覚するのはつらい。
せつないな。今はまだなんとかなってるけど 母がヨボヨボになった時
よりそえる自分であらねばとは思う。安心だけはもっといて。
そして独身の私の老後を母が心配している。どうなるんでしょうね。
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